ただ水の音だけが広がる沈黙の中で、ヒルスはルーシャに背を向けたまま呆然と立ち尽くしていた。
「貴方、良く堪えたわね。後追いでもされたらどうしようかって内心ヒヤヒヤしてたのよ?」
「する気だったけど、アンタを信じたんだ。別の世界に行く穴は1人分だったんだろ? アイツは……リーナはちゃんと向こうへ行けたのか?」
ルーシャが滝壺へと構えた杖を引いて「勿論よ」と答える。彼女が空中に描いた藍色の魔法陣が宙に溶けていく。
ヒルスは項垂れた背をゆっくりと起こし、もう二度と会えない妹を思って自分の肩をそっと抱きしめた。
「リーナのさっきのアレは何だったんだ?」
彼女が最後に耳元で何を話したのか、ヒルスには聞き取ることが出来なかった。言葉だと言われればそんな気もするし、魔法だと言われれば魔力のないヒルスは『そうなのか』と納得せざるを得ない。
「アイツはもう魔法なんて使えない筈だろう?」
「彼女にも色々と事情があるのよ。必要になる時が来たら教えてあげるから、今はまだ我慢して。リーナは貴方の妹だけれど、この国の大切なウィザードでもあるんだから」
「……ウィザード様ね。そんなの分かってるんだよ」
今まで何度もそれを納得しなければと思って生きて来た。
妹である前に彼女はこの国にとって大切な魔法使いだ。いつも側に居るのに、間を隔てる壁は厚い。
「けど、リーナが幸せだと思えるなら、それでいいのかな。どうせならこっちの事を何も思い出さないで転生する方が幸せなんじゃないかって思うのは、僕の我儘なのか?」
「それじゃ何のために行くのか分からないでしょ? 先に行った二人は、あの子が追い掛けてくるなんて夢にも思っていないでしょうね」
「アイツらが恨めしいよ。けど、本当にアッシュは死ぬのか?」
「死ぬわよ」
杖の先についた黒い球を撫でながらキッパリと肯定したルーシャに、ヒルスはその意味を噛み締めるように唇を結んだ。閉ざされた運命を辿る友を思うと、引いたはずの涙がまた零れそうになる。
「彼女はアッシュの武器を引き継いで、ラルと一緒に異世界を救う覚悟で崖を飛んだの。お兄ちゃんがそんな顔してたら、彼女の想いが無駄になってしまうわ」
「無駄になんてさせるかよ……」
「えぇ。そして貴方はやっぱり彼女と同じことを私に聞いたわ。貴方も異世界に行きたいんでしょう?」
「――えっ?」
「さっきはあぁ言ったけど、飛び降りる以外にも手段はある。つまり、そういうことよ」
ルーシャは崖の向こうを指差して、悪戯な笑顔を見せた。
ヒルスは驚愕の表情を貼り付けたまま、彼女の片腕にしがみつく。
「そ、それって、僕も向こうの世界へ行けるって事?」
急に接近したヒルスの顔に口元を引きつらせ、ルーシャは両手でえいと押しのける。
「前例なんて何もないし、すぐにって訳じゃないわ」
「構わないよ。リーナの所に行けるなら幾らでも待つから。なんならついでに僕のお願いを一つだけ聞いてもらえないかな」
「何よ、言ってみれば?」
面倒そうに聞くルーシャに、ヒルスは悲しさを一掃する笑顔を広げてその願望を放った。
「どうせ生まれ変わるなら、僕を女にしてくれないか?」
☆☆☆
9月1日。
学校から三つ手前の広井駅で、ぎゅうぎゅう詰めの電車から堰(せき)を切ったように人が下りていく。流れを逆らって車内へ乗り込んだ芙美(ふみ)は、閑散とした車内に残った彼の隣に並んで「おはよう」と挨拶した。
「おはよ」と返す彼は、眼鏡の奥にどこか思い詰めた表情を沈めて遠くの風景を見つめている。
二学期の始まりは、そんないつも通りの朝だった。
芙美が湊(みなと)と初めて言葉を交わしたのは、高校の入学式の翌日だ。
同じ車両から一緒に降りた彼が真新しい制服を着ている事に気付いて、芙美から声を掛けた。
「同じクラス……だっけ?」
「まぁ……」
じろりと視線を合わせてきた湊が、少しだけ笑顔を見せる。
1学年1クラスしかない小規模校で、新入生は15人だ。入試の時、そこに彼がいたかどうか、覚えてはいない。少し距離を置こうか迷って、彼の後を追い掛けた。
その時の芙美は、まだ彼の事も自分の選んだ運命も思い出してはいなかった。
運命の日は10月1日。
この地球で、この町で、芙美(リーナ)は――。
広井(ひろい)駅を出発して少しすると、電車は大きな川を超える。そこからはもう民家もほとんどない田舎の風景が広がっていた。「何考えてるの?」 小さな集落の無人駅を過ぎたところで、荒助(すさの)芙美は並んで座る相江湊(あいえみなと)に声を掛けた。虚ろ気に外を見つめる彼に芙美がそれを尋ねるのは、入学式から数えて2回目だ。「あ、いや、天気良いなと思って」 前も同じような返事だった気がする。促すように空を見上げた彼の視線を追うと、まだ真夏の気分を残したモクモクの入道雲が山の緑に重なっていた。「今日も暑くなりそうだね」「そうだな」 ほんの少し笑って見せて、湊はまた風景に没頭する。 広井駅を過ぎると、改札から遠い2両目の車両には他の客が誰も居なくなった。恋人同士ではないが他人という訳でもなく、芙美はなんとなく彼の側に居る。 芙美が挨拶すれば彼はちゃんと答えてくれるし、嫌がっている様子もない。ただ毎度のように黙って外を眺める彼は、心がどこか遠くにあるような気がした。『次は白樺台(しらかばだい)』 少しずつ民家が増えてきたところで、アナウンスが流れる。 山奥の小さな町の駅に下りるのは、同じ高校の制服を着た男女ばかりだ。 エアコンのきいた車内からホームへ出ると、昨日の雨で湿度の高くなった暑い空気がムンと広がった。「あっついね」と芙美が手うちわを扇ぐと、湊が「ほら」と改札の向こうを指差す。「咲ちゃん!」 芙美の到着を待ってましたと言わんばかりに笑顔を広げる彼女は、同じ一年の海堂咲(かいどうさき)だ。ウエストをくるくると巻き上げた超絶ミニ丈のスカートから惜しみない美脚を晒して、駅から出る芙美を迎えた。「おはよう、芙美。会いたかったよ。ついでに湊も、おはよう」 大袈裟に目を潤ませる咲を冷たい目でチラ見して、湊は「おはよ」とそっけなく返事する。「おはよう咲ちゃん。この間一緒にプール行ったばっかりだよね?」「そんなの一週間も前だろう? それは久しぶりって言うんだよ。あの時の芙美は、めちゃくちゃ可愛かったな」 鞄を胸に抱きしめて、咲は「うんうん」と夢見がちに何度も頷いた。 ちなみに、咲がいつも下ろしているストレートの髪を高い位置で結わえているのは、この間プールに行った時に芙美が「ポニーテールも可愛いよ」と褒めたからだと芙美は思った。「あの時の咲ちゃん
ただ水の音だけが広がる沈黙の中で、ヒルスはルーシャに背を向けたまま呆然と立ち尽くしていた。「貴方、良く堪えたわね。後追いでもされたらどうしようかって内心ヒヤヒヤしてたのよ?」「する気だったけど、アンタを信じたんだ。別の世界に行く穴は1人分だったんだろ? アイツは……リーナはちゃんと向こうへ行けたのか?」 ルーシャが滝壺へと構えた杖を引いて「勿論よ」と答える。彼女が空中に描いた藍色の魔法陣が宙に溶けていく。 ヒルスは項垂れた背をゆっくりと起こし、もう二度と会えない妹を思って自分の肩をそっと抱きしめた。「リーナのさっきのアレは何だったんだ?」 彼女が最後に耳元で何を話したのか、ヒルスには聞き取ることが出来なかった。言葉だと言われればそんな気もするし、魔法だと言われれば魔力のないヒルスは『そうなのか』と納得せざるを得ない。「アイツはもう魔法なんて使えない筈だろう?」「彼女にも色々と事情があるのよ。必要になる時が来たら教えてあげるから、今はまだ我慢して。リーナは貴方の妹だけれど、この国の大切なウィザードでもあるんだから」「……ウィザード様ね。そんなの分かってるんだよ」 今まで何度もそれを納得しなければと思って生きて来た。 妹である前に彼女はこの国にとって大切な魔法使いだ。いつも側に居るのに、間を隔てる壁は厚い。「けど、リーナが幸せだと思えるなら、それでいいのかな。どうせならこっちの事を何も思い出さないで転生する方が幸せなんじゃないかって思うのは、僕の我儘なのか?」「それじゃ何のために行くのか分からないでしょ? 先に行った二人は、あの子が追い掛けてくるなんて夢にも思っていないでしょうね」「アイツらが恨めしいよ。けど、本当にアッシュは死ぬのか?」「死ぬわよ」 杖の先についた黒い球を撫でながらキッパリと肯定したルーシャに、ヒルスはその意味を噛み締めるように唇を結んだ。閉ざされた運命を辿る友を思うと、引いたはずの涙がまた零れそうになる。「彼女はアッシュの武器を引き継いで、ラルと一緒に異世界を救う覚悟で崖を飛んだの。お兄ちゃんがそんな顔してたら、彼女の想いが無駄になってしまうわ」「無駄になんてさせるかよ……」「えぇ。そして貴方はやっぱり彼女と同じことを私に聞いたわ。貴方も異世界に行きたいんでしょう?」「――えっ?」「さっきはあぁ言ったけど
世界を脅威に陥れたハロンとの戦いが終わって1年が過ぎた。 ため息が出る程の平和な日々が過ぎ行く中、魔女(ウィッチ)である彼女がふと垣間見た未来に絶句する――それが全ての始まりだった。 ☆ 異世界へ旅立つ決心なんてとっくの昔についていた筈なのに、いざここへ来ると足元が竦(すく)んでしまう。 断崖絶壁から下方を覗き込んで、リーナはゴクリと息を呑んだ。 すぐ側で途切れた川の水が滝壺を叩き付け、底は水しぶきに白く霞んでいる。「別に、怖いなら飛び込まなくてもいいのよ? 貴女がここで死んで異世界へ生まれ変わらなくても、先に行ったラルがちゃんとアイツを始末してくれるわ。彼の力を信用してみたらどう?」 背後で見守る魔女・ルーシャが仁王立ちに構え、眉間のシワを寄せた。「ラルの力を信用してないわけじゃないよ。けど、アッシュの事を聞いたら、やっぱり私は彼の所に行きたいの」 ――『アッシュが死んでしまうわ』 つい数日前に聞いたルーシャの発言が何度も頭を巡り、衝動が止まらなかった。想像した未来に泣き出してしまいそうになる気持ちを抑えて、リーナはふるふると首を振る。 ラルもアッシュも、リーナにとって大切な人だ。なのに二人はリーナに何も言わず、もう戻る事の出来ない世界へ旅立ってしまった。「あの二人が異世界へ飛んで貴女までを行かせてしまうのは、この国にとって大きな損失よ?」「私はもう力なんて使えないのに」「表向きはね。けど貴女は今でもれっきとしたウィザードよ?」「うん――」 ルーシャの言う事はちゃんとわかっている。 一年前の戦いが終わった時にリーナの魔力は消失したのだと周知されているが、実際はルーシャの魔法で内に閉じ込めているだけだ。そしてそれを知る人間はリーナとルーシャの二人だけに他ならない。 再びウィザードとして魔法を使う事に躊躇いが無い訳じゃない。けれど、ラルとアッシュを追って異世界へ行く決断をしたのは、それが事態を好転させる切り札だと確信したからだ。 リーナが胸の前で両手をぎゅっと組み合わせたのを合図に、ルーシャが右手に掴んだ黒いロッドの先で足元をドンと突く。「貴女の行動が彼等の想いに背くんだって事も頭に入れておきなさい?」「分かってる。それでも行きたいと思ったから、私はここに来たんだよ」 確固とした意志で主張するリーナに、ルーシャが「